ここのところ(2026年8月下旬)SNSでは連日、生成AIによる制作物についての議論が盛り上がっています。
よく見ると「異様」な料理
最も話題になっているのが、飲食店やコンビニが掲示しているポスターのこと。店先や店内で見かけ、その出来に驚いて撮影したものがSNSにたくさん上がっています。
いずれも商品を派手にアピールしていて、一瞬だけなら気づかないのですが、細部まで眺めるとものすごい違和感が襲ってきます。
最大の違和感は料理写真が異様なこと。飲食店において最も大事な部分のはずですが、よく見るとお米がまるきり消臭ビーズ。粗挽きハンバーグは納豆を俵形に固めたような造形。野菜の断面が現実にはない形をしてる。チーズ要素のない炒め物がびろーんと糸を引いている…。
食べ物なので、そのありえなさは即、不快感に結びつきます。
そう、生成AIで失敗してる料理写真は「おかしい」とかじゃなく、揃いも揃って気持ち悪いんですよ。AIはなぜか「細かいツブツブ」が好きみたいで、集合体恐怖症の人は特にゾワリとくるはず(私はきました)。
他にもAIでおなじみ「人の手が3本ある」を始め、「土俵にたくさん線が引かれてる」「ラベルの文字が宇宙語」など、毎日たくさんのやらかしが報告されています。
文字起こしそのまま!?
先日は編集部から「インタビュー原稿のチェックをお願いします」と作家さんへ渡された原稿がただのAIによる文字起こしだった、という投稿が話題でした。
「文字起こし」は会話をそのまま文字にしているだけなので、当たり前だけど大変読みづらいものです。人って意外と「文章で喋ってない」ですからね。
主語や助詞を省く、「てにおは」はめちゃくちゃ、語順はバラバラ。会話中はそれで通じるけど、人が読むとなると発言を文章の形に整え、構成を作らないといけません。たくさん手を入れて初めて記事に昇華する。ライターの手とセンスを入れ込むことは必須なのです。
しかしAIの文字起こしがわりと優秀なこともあり、それをそのままインタビュイーに渡してしまう事態が結構あるみたい。
そうなるとインタビュイーが自身の発言内容や言い回しを確認するだけでは済まず、全部書き直したりする。それはもはや「インタビュイーが執筆した記事」です。ギャラ発生するぞ!
「誰でも使える」とこうなる
SNSでこういう事例が多数報告され、「人類にまだAIは早かった」などと嘆く向きも多いのですが、みんな別に「AIにその工程をやらせること」を批判しているわけではありません。「できたものをそのまま出す」ことが信じられないと言っているのです。
「なぜ気にならない!?なぜ最後に人間がチェックしない?」とみんな首を傾げていますが、このAI全盛のいま、もしかしたら我々の方が少数派なのか…?怖い!
読者さまのようにリテラシーの高い方々は生成AIをもっと高度にお使いだと思うのでこんなのは噴飯ものかもしれません。
ただ「誰でもカンタンにデザインや文章が作れるツール!」として一般に広まるというのは、「制作物を世に出す際に必ず踏むべき工程やお約束」をそもそも知らない人たちが自由に使い始めることでもあるんだな…と痛感するのです。
デザインなら細部に変なところがないかチェックする。原稿なら誤字脱字を何度も確認する。そして、これを目にするお客さまが不快に思わないか、読みやすく伝わりやすいかを確認する。ノーチェックで世に出しては絶対にダメ。
…諸先輩方から叩き込まれたその工程ですが、必須であると知らない素人は「AIでカタチになったー!」で良しとするのか…?あんまり信じたくはないけど(だって変なものは誰が見ても変でしょ?)。
「プロのこだわり」が浮き彫りに
制作物のクオリティの低下と、それを気にしない人たちの増加。生成AIの広がりは、そんな弊害を生んでいるかもしれません。
ただひとつ良いなと思ったのは、こういう話題が盛んになる中で「生成AIによる広告あるある」として、具体的にこういうとこがダメなんだよ!という意見がどんどん出てきたこと。
例えば「全て強調されすぎて最も伝えたいことが不明」「視線誘導ができていない」「画面に情報が詰まりすぎて読む気がしない」などなど。
インタビュー記事制作の話では「文字起こしから記事にする時はこういう点に気を付ける」というライターたちの声が集まり、とても勉強になりました。これらはいずれもAIに関係なく、大事な知見だと思うのです。
ふだん何気なく目にし、発注側としても細部まではさほど気にはしない制作物でも、生成AIによる異形のアウトプットとの比較で「実はこういうところに気を配らないとヘンに見えるのだな」という気づきが得られる。
そして、これまで自らの手作業で作ってきたプロの制作者たちの「こだわりポイント」も浮き彫りになる。これはとても良い流れだと思います。
いま、生成AIによるクリエイティブは間違いなく過渡期。使う側の成熟はまだまだ先かもしれません。
だからこそ、その過程で「ひとの手と目」の大切さ、「ひとの直感」の正しさは、再認識されてゆくのかもしれませんね。